実名報道は正しいのか

   「犯罪者」というレッテルが消えることはあるのだろうか。
 事件の容疑者として逮捕された人間に対し、世間は「あいつが犯人か」という認識を持つ。事件に対する人々の関心は、裁判が始まる前に「容疑者逮捕」という形で半分消化されてしまうことが多い。容疑者の氏名・年齢・住所、そしてしばしば経歴が報道され、ニュースの受け手は「犯人が捕まった、あとは専門機関に裁いてもらえばいいのだ」、といった感覚に陥ることが多いのではないだろうか。つまり多くの人々の中で「事件の解決」は「容疑者の逮捕」であり、一度容疑者として捕まった人間に対する“犯人”というレッテルの修正がわざわざ行われることは、まずないと言ってよいだろう。


 7日、現在奈良県に住む無職の男性(73)が広島県警安佐北署に威力業務妨害の疑いで逮捕された。 この男性は昨年8月15日から12月19日までの間、広島にある実家の側の線路上にアスファルトに似た舗装材で長さ約3メートルの「踏切」を設置した。容疑はJR西日本の保守点検業務の妨害である。 男性は以前この実家に住んでおり、線路をはさんで反対側に位置する畑に向かうために線路を横断する必要があった。その際の通路として今回のような踏切を作ったと思われる。この行動に出る以前、男性はJR西日本に対し踏切の設置を願い出ていたが、現場付近には本来の踏切があり、男性の要望は受け入れられなかったという。
 
 この男性の実家の様子テレビで放映されているのを見て、悲しい思いになった。 家の周りに広がるのどかな田舎風景。報道人を見つめる近所の老人たち。「畑に行くのに線路が不便だ」という容疑者の73歳の男性の声が、まるで犠牲者のものであるかのような錯覚に陥ってしまう。現在は奈良県に暮らす容疑者だが、この転居は毎日男性が線路を横断して畑に向かうのを心配した家族の要請であったかも知れない。この点に関しては詳細が報道されていないので、あくまで推測でしかなく、無責任な発言ではあるが。


 もちろん男性のとった行動は危険極まりないものであり、一歩間違えば脱線などの大惨事を引き起こしていたかもしれないことを考えれば、逮捕は当然であり、仕方のないことである。しかしこうした場合、男性の実名を公表し、「○○容疑者」として大きく報道することに私は違和感を覚える。“犯人”という言葉の持つ重いマイナスイメージと、逮捕された男性の姿とが、どうしても同等のものとは受け止めがたいのである。


 ある事件の報道に際し、容疑者を実名で報道することは、多大なリスクを伴う。冤罪である場合の本人の名誉が傷つけられることは無論、その人物が実際に犯人である場合にも、残された家族や親戚、友人らの日常はめちゃくちゃになる。特に容疑者が地方に住んでいる場合、実名報道による弊害の大きさは都市の比ではない。地方の小さなコミュニティの中で生きている個人にとって、「事件」は揺るがしがたく強烈な出来事であり、平穏だった生活の秩序は報道陣の殺到で壊れる。また同じコミュニティの中から容疑者が逮捕―“犯人”の誕生である―されることによって、人々の暮らしには大きな傷が残る。このような田舎に住む人々にとって、そもそも自らが住む地域が全国ニュースで取り上げられること自体、初めてである場合も多いのだ。


 「事件」に関わったとされる人間とその一族は長い年月にわたって負のレッテルを貼られ、コミュニティを追われることとなる。地縁・血縁が色濃く残っている田舎では、一度ついた傷は一生、そして次世代にまで残る。

  実名報道によって、男性の名と存在はコミュニティを超え、社会全体に認識される。 毎日畑と家とを往復して平穏に暮らしていた老人のささやかな人生は、もう戻っては来ないのだ。