脱政治化された漫画 

 我が家では、毎年年始に映画館に行くことが慣例化している*1。今年も元旦に映画の話題が持ち上がったのだが、私はそこで、関心のある映画として『実録・連合赤軍』を挙げた。この問題について云々、というよりも、同時代を生きていない世代としてもっとよく知りたい、というのが動機である。

 だが、今日取り上げたいのは映画の中身についてではない。私の発言を受けての両親の会話だ。父によれば、当時の『マガジン』や『スピリッツ』といった漫画雑誌に浅間山荘事件の特集が組まれていたそうだ。もちろん、単発の企画というわけではなく、ようは時事的な問題を特集していた、ということである。また、母によれば『りぼん』*2のような少女漫画には、淑女としてのマナーを説いたコーナーがあったそうだ。

 これには少なからず驚いた。現在の『ジャンプ』でオウム真理教北朝鮮拉致問題についての特集が組まれるとは思えない。仮に掲載されていたとしたら、大多数の読者から読まれないばかりか、多くの親は「こんなもの読まないほうがいい」と取り上げられるのではないかとさえ思える。ここには当時と今の政治に対する温度の違いを感じずにはいられない。『はだしのゲン』が『ジャンプ』で連載されていたことを知ったときも驚いたが、改めて当時の漫画の位置づけに考えさせられることとなった。

 注目すべきなのは、両親はさも当然のように当時の漫画の状況を語っていたことだ。私たちの感覚では、浅間山荘事件の特集が『ワンピース』の後ろに載っている、などと想像することは非常に困難であると思われる。これは社会がいかに「脱政治化」してきたかということを雄弁に物語っているのではないだろうか。

 「脱政治化」されること自体が悪いとは思わない。政治に対して期待する事柄が多いほど社会は「政治化」されていくのだから、現在の状況は言うまでもなく、多くの人が豊かになり、経済成長と分配という目標が一応の達成を収めたからである。その意味では喜ぶべきことでもあるだろう。

 しかし、現在は決して政治に期待されるべき役割が減ったわけではない。それは形を変えたのである。確かに経済は発展したが、その陰で環境問題をはじめとして解決すべき課題は山積している。これらの課題を解決するためには、広義の政治の働きは必要不可欠なはずだ。高らかに政治的な主張をしなくても、問題意識をさりげなく、そして鋭く孕んだ漫画はもっと増えてもいいのではないだろうか。

*1:最も今年は全員の嗜好に一致するものが公開されていなかったので、結局見送られたのだが

*2:他に少女漫画誌が思いつかなかったので。さすがに対象年齢的に淑女ではないことは自覚している