わかっている女(ひと)

※K.Kが10日間ほど不在になるので、しばらくは私が連続して文章を書きます。


 第138回芥川賞を受賞した、川上未映子氏の『乳と卵』を読んだ。
受賞を報じた全国紙での彼女のコメントを読み、「これはとんでもない人が出てきたな」と思った。しかし週刊誌のグラビアを飾った彼女の挑発的なスタイルと目つき(ただしそこには淡々とした理性としたたかなエネルギーの炎がちらちらと見えたが)に、「こんなに自分にプレッシャーかけて大丈夫なんだろうか、次回作はどうするのだろう。」とも思った。


 昨日発売された文藝春秋3月号を開き、疲れていたのでとりあえず冒頭を読んだら休もう、とページを繰った。
 しかし、疲れているのにも関わらず手も目も頭も止まらなかった。うんうん唸りながら進んだ。すごい、どうしようか、なんという力、等と一人で呟いていた。

 ちょっと読んだら続きは後にしよう、とベッドの上であぐらをかいていた。しかしこれは止まらないな、と気づき場所や体の位置を変えようと思いつつも、文字を追う目がとまらない。独り言とともにくねくねと姿勢を変えながら、とうとう最後のページまでたどり着いてしまった。読み終わったときには正座をした格好のまま上半身が前のめりになり、なんとも苦しい姿勢のまま両手で雑誌を抱えて読んでいた。川上未映子、やはりとんでもない。


 選考委員の評としては、石原慎太郎氏がいつも通り辛口で切り捨てていたが、あの人にこの作品の良さがわかるはずもないだろう。わかるようならば私はとっくに彼を嫌いではなくなっている。
石原氏はともかくとして、村上氏、宮本氏の評もやや物足りない。池澤夏樹のみ、納得のいくコメントをしていた。小川氏はちょっと自分の世界観を出し過ぎている気もする。やはり山田詠美は文句なしの即決だったと言う。石原氏のコメントにさりげなく反論しているのも頷ける。彼女が評した通り、この作品は“饒舌ではあるが無駄口は叩いていない”。


 私が個人的に感じたこと、思ったこととしては、ラストがやや尻すぼみになっている感がある。「夏ちゃん」の描写がもう少しほしかった。まあこれは書きすぎても陳腐だとは思うが。それにしても頭に浮かぶ諸々の思考展開を余すところなく言葉にする筆力に驚いた。言葉の単純化と洗練は違う。この作品の語りを“無駄なおしゃべり”と切り捨てるのは緻密な思考の諦め、そうでないなら言葉にしようとしないことで言葉そのものから真の意味では逃げていることの表れである。これらは無意識であっても同じことである。芥川、そして三島が鬼才天才と言われたのは、思考の緻密さが言葉の上でこの上なく純化して、結晶化していたためである。


 わかっているのに言葉にできない、と人はよく言うが、本当はわかっていることしか言葉にすることが出来ないのではないか。言葉をつむぐのは時に苦しみの作業となる。それでも絞り出す力と情熱を持った人間が、作家として評価されるべきだ。


 川上氏は、この作品に一体どれだけのエネルギーを注いだことだろう。これを書きあげた後で、あれだけの挑発としたたかさを漂わせる彼女が、私には恐ろしくも魅力的でたまらない。

少数派の流す涙

 セルビアからの独立を求めるコソボ自治州が、今月中旬にも欧州諸国の支持を背景に独立を強行する姿勢だという。
人口の9割を占めるアルバニア系住民のかげで、自治州内には少数民族としてセルビア系住民が残る。コソボ南部、マケドニアとの国境地帯にあるムシュニコバ村では、多数派のアルバニア系住民のなかで、セルビア系の老人たちがひっそりと暮らす。
 紛争前、村にはアルバニア系とセルビア系とが2:1の割合で暮らしていた。紛争中も両者の間に衝突は起こらなかったが、セルビア人のほとんどは紛争後村を出て行ったという。現在残るのは老人60人ほど。周囲からは完全に孤立し、生活に希望も持てず無力感にさいなまれて細々と暮らしている。
紛争後からコソボを統治してきた国連機関による生活保護は月40ユーロ(約6000円)。コソボの独立後、残留した彼らセルビア系住民に支払われるこうした保障金がどうなるか、説明はなされていない。
【ニュースソース: 2008 02.09毎日 朝刊】


 セルビアの政治家は首都ベオグラードで、独立反対を声高らかに叫んでいるというが、現状の厳しさを、身をもって経験しているのは罪のないこうした人々である。国と民族、大きなもの同士の対立の陰で犠牲になるのは名もなき個人である。「生活が苦しいのならばセルビア系の多い地区に引っ越せばよい」というのは想像力のない外部からの一般論の押し付けである。かつての住民のなかには、住み慣れた地を追われる辛さを背負いつつも、新しい土地で必死に仕事と住処を探し、1から人生を構築しなおした人々もいる。しかし、70代、80代の老人たちにはそうしたエネルギーも、チャンスも残されてはいない。

 ひとつの民族・地域が圧迫を強いてきた国から独立することは、華々しく画期的な解決である。そこには自由を夢見た人々の苦しみと流血の歴史がある。しかし、国家という枠に縛られ苦しむのは、独立側の人々だけではない。アルバニア系とセルビア系市民のあいだに共通して横たわるのは、自分の力ではどうすることもできない悲しみの経験、小さな個人の流す涙である。

 「政治とカネ」

週刊現代の最新号に福田総理の脱税疑惑が掲載されている。同誌が安倍前総理の辞意表明と時を同じくして、前総理の脱税疑惑を報じたこともまだ記憶に新しい。我こそが批判精神を体現していると言わんばかりの書きぶりに若干冷めた気持ちも覚えなくはないが、こういった記事を出せることは素直に評価したい。

 政治家といえばカネがらみのスキャンダル、というのはヒットソングの中にも歌われる程に浸透しているイメージであり、また事実でもある。毎年、何度こうした報道に接するかわからない。一向に根絶される気配がないこの状況を見れば、国民が政治を信頼できないのも無理からぬことだと思う。

 国民の代表である政治家がルールを守らず、私的な目的に金銭を費やすことは許されるべきことではない。報道機関が積極的に取り上げ、問題視するのも当然そうすべきだと考える。しかし、それだけでは「政治とカネ」の問題が解決に至ることはまず期待できないだろう。
 
 政治にはとにかくカネがかかる。選挙に関連した表の活動から、権謀術数渦巻く裏の活動まで、その全貌は現在の私には計り知れないが、「まともな」政治活動を送るには、相当の額が必要であることだけは認識できる。だからといって、「必要悪」と単純に片付けろというのではない。どういったところでカネが必要なのかについては深く突っ込まない報道機関の姿勢を問題にしたいのだ。

 政治と、その背景にある日本社会の構造。ここについても分析を加え、全体を概観した上での「政治とカネ」の位置づけと解決策を提示すること。ここまで行って初めて、活きた批判が出来るようになると思う。

実名報道は正しいのか

   「犯罪者」というレッテルが消えることはあるのだろうか。
 事件の容疑者として逮捕された人間に対し、世間は「あいつが犯人か」という認識を持つ。事件に対する人々の関心は、裁判が始まる前に「容疑者逮捕」という形で半分消化されてしまうことが多い。容疑者の氏名・年齢・住所、そしてしばしば経歴が報道され、ニュースの受け手は「犯人が捕まった、あとは専門機関に裁いてもらえばいいのだ」、といった感覚に陥ることが多いのではないだろうか。つまり多くの人々の中で「事件の解決」は「容疑者の逮捕」であり、一度容疑者として捕まった人間に対する“犯人”というレッテルの修正がわざわざ行われることは、まずないと言ってよいだろう。


 7日、現在奈良県に住む無職の男性(73)が広島県警安佐北署に威力業務妨害の疑いで逮捕された。 この男性は昨年8月15日から12月19日までの間、広島にある実家の側の線路上にアスファルトに似た舗装材で長さ約3メートルの「踏切」を設置した。容疑はJR西日本の保守点検業務の妨害である。 男性は以前この実家に住んでおり、線路をはさんで反対側に位置する畑に向かうために線路を横断する必要があった。その際の通路として今回のような踏切を作ったと思われる。この行動に出る以前、男性はJR西日本に対し踏切の設置を願い出ていたが、現場付近には本来の踏切があり、男性の要望は受け入れられなかったという。
 
 この男性の実家の様子テレビで放映されているのを見て、悲しい思いになった。 家の周りに広がるのどかな田舎風景。報道人を見つめる近所の老人たち。「畑に行くのに線路が不便だ」という容疑者の73歳の男性の声が、まるで犠牲者のものであるかのような錯覚に陥ってしまう。現在は奈良県に暮らす容疑者だが、この転居は毎日男性が線路を横断して畑に向かうのを心配した家族の要請であったかも知れない。この点に関しては詳細が報道されていないので、あくまで推測でしかなく、無責任な発言ではあるが。


 もちろん男性のとった行動は危険極まりないものであり、一歩間違えば脱線などの大惨事を引き起こしていたかもしれないことを考えれば、逮捕は当然であり、仕方のないことである。しかしこうした場合、男性の実名を公表し、「○○容疑者」として大きく報道することに私は違和感を覚える。“犯人”という言葉の持つ重いマイナスイメージと、逮捕された男性の姿とが、どうしても同等のものとは受け止めがたいのである。


 ある事件の報道に際し、容疑者を実名で報道することは、多大なリスクを伴う。冤罪である場合の本人の名誉が傷つけられることは無論、その人物が実際に犯人である場合にも、残された家族や親戚、友人らの日常はめちゃくちゃになる。特に容疑者が地方に住んでいる場合、実名報道による弊害の大きさは都市の比ではない。地方の小さなコミュニティの中で生きている個人にとって、「事件」は揺るがしがたく強烈な出来事であり、平穏だった生活の秩序は報道陣の殺到で壊れる。また同じコミュニティの中から容疑者が逮捕―“犯人”の誕生である―されることによって、人々の暮らしには大きな傷が残る。このような田舎に住む人々にとって、そもそも自らが住む地域が全国ニュースで取り上げられること自体、初めてである場合も多いのだ。


 「事件」に関わったとされる人間とその一族は長い年月にわたって負のレッテルを貼られ、コミュニティを追われることとなる。地縁・血縁が色濃く残っている田舎では、一度ついた傷は一生、そして次世代にまで残る。

  実名報道によって、男性の名と存在はコミュニティを超え、社会全体に認識される。 毎日畑と家とを往復して平穏に暮らしていた老人のささやかな人生は、もう戻っては来ないのだ。

脱政治化された漫画 

 我が家では、毎年年始に映画館に行くことが慣例化している*1。今年も元旦に映画の話題が持ち上がったのだが、私はそこで、関心のある映画として『実録・連合赤軍』を挙げた。この問題について云々、というよりも、同時代を生きていない世代としてもっとよく知りたい、というのが動機である。

 だが、今日取り上げたいのは映画の中身についてではない。私の発言を受けての両親の会話だ。父によれば、当時の『マガジン』や『スピリッツ』といった漫画雑誌に浅間山荘事件の特集が組まれていたそうだ。もちろん、単発の企画というわけではなく、ようは時事的な問題を特集していた、ということである。また、母によれば『りぼん』*2のような少女漫画には、淑女としてのマナーを説いたコーナーがあったそうだ。

 これには少なからず驚いた。現在の『ジャンプ』でオウム真理教北朝鮮拉致問題についての特集が組まれるとは思えない。仮に掲載されていたとしたら、大多数の読者から読まれないばかりか、多くの親は「こんなもの読まないほうがいい」と取り上げられるのではないかとさえ思える。ここには当時と今の政治に対する温度の違いを感じずにはいられない。『はだしのゲン』が『ジャンプ』で連載されていたことを知ったときも驚いたが、改めて当時の漫画の位置づけに考えさせられることとなった。

 注目すべきなのは、両親はさも当然のように当時の漫画の状況を語っていたことだ。私たちの感覚では、浅間山荘事件の特集が『ワンピース』の後ろに載っている、などと想像することは非常に困難であると思われる。これは社会がいかに「脱政治化」してきたかということを雄弁に物語っているのではないだろうか。

 「脱政治化」されること自体が悪いとは思わない。政治に対して期待する事柄が多いほど社会は「政治化」されていくのだから、現在の状況は言うまでもなく、多くの人が豊かになり、経済成長と分配という目標が一応の達成を収めたからである。その意味では喜ぶべきことでもあるだろう。

 しかし、現在は決して政治に期待されるべき役割が減ったわけではない。それは形を変えたのである。確かに経済は発展したが、その陰で環境問題をはじめとして解決すべき課題は山積している。これらの課題を解決するためには、広義の政治の働きは必要不可欠なはずだ。高らかに政治的な主張をしなくても、問題意識をさりげなく、そして鋭く孕んだ漫画はもっと増えてもいいのではないだろうか。

*1:最も今年は全員の嗜好に一致するものが公開されていなかったので、結局見送られたのだが

*2:他に少女漫画誌が思いつかなかったので。さすがに対象年齢的に淑女ではないことは自覚している

アメリカン・ドリームの先にあるもの

ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 (初回生産限定版) [DVD]  「ままならんよ、人生は。」
 かの名画「ローマの休日」の中で、グレゴリー・ペック扮するジョー・ブラドリーが微笑みを浮かべながら言ったセリフである。夢のような1日が終わり、アン王女(オードリー・ヘップバーン)とジョーは、互いの現実へと引き戻されていく。ラストシーンで記者会見の会場から出て行くジョーの瞳に浮かぶのは、懐旧と決意の混じり合った、深い実感の色であった。ここに物語は美しい輝きを持ったまま時を止めるが、ジョーが生きるべき現実は、なおも続いていくのである。


 アメリカは明日、米大統領選の予備選・党員集会が集中的に行われる“スーパーチューズデー”を迎える。激戦を繰り広げる民主党ヒラリー・クリントン上院議員(60)とバラク・オバマ上院議員(46)、指名を確実にしたい共和党ジョン・マケイン上院議員(71)とそれを猛追するミット・ロムニーマサチューセッツ州知事(60)。国内外からの熱い注目を浴びて、選挙に勝つためのパフォーマンスに拍車がかかる各候補だが、アメリカン・ドリームの幻想が見せてくれる泡のような幸せではなく、シビアな現実を受け止めながらも着実に歩を進める策を打ち立てて行けるのは一体誰なのか。ブッシュ現大統領が残すこととなる深刻かつ煩雑な課題の数々を克服するために、国民の信頼を回復し、現状から目を背けないで向き合うことの出来る忍耐力が必要だ。


 「ローマの休日」において、物語のラストでジョーが世紀の特ダネを投げ捨ててまで守ったものは、アン王女の信頼を背負うための揺るぎない覚悟と、“真実”に触れる者が持つべき誇りだった。そうしたヒューマニズムと信念を国民に対して提示できるかどうか、各候補に求められるのは一過性の統率力ではなく、地に足の着いた堅実さである。夢を生きることが幸福なのではない。夢や理想を超えたその先に延々と続く、終わりのない現実と闘い続ける強さを、指導者を志す人間には見せてもらいたいものである。